私は誰だ?
劇場版ポケットモンスター「ミュウツーの逆襲」の冒頭は、ミュウツーによるこのセリフから始まりました。けど、こんなアイデンティティの不在感や喪失感は現代人なら、誰であっても感じる問題なのです。
そして、ときにそんなアイデンティティの喪失感は、自暴自棄に陥ったり、精神的に問題が発生する原因にさえなりうるのです。
そう、ミュウツーが出した結論も「お前たち(人間たち)への”逆襲”」でした。
しかし、そもそも「私は誰か」なんてことは定義できるのでしょうか。「本当の自分」なんて存在するのでしょうか?
それに対して、社会学者のジンメルは出しています。今回は、いまあなたが悩んでいるかもしれない「本当の自分」について、社会学的に回答していきます。
- アイデンティティ
- 他者
- 一般化された他者
- 状況主義的役割人間観
他者を100%理解しているなんてありえない
まず、「本当の自分」を理解する前に、あなたが「本当の他者」を理解できているかについて考えてみましょう。(みなさんの身の回りにいる「私」以外の存在のことを他者といいます。)
それでは、みなさんの周りの誰かひとりを思い浮かべてみてください。できるだけ親しい人を、親でも親友でも恋人でもかまいません。
では、その人のことをあなたは何%知っていますか?
「私たちの間には隠しごとがない」「本当に双子みたいな関係でなんでも話し合っている」
本当でしょうか?
親友は、あなたの知らないコミュニティに属しています。たとえば、学校も部活もいっしょだったとしても、地元のコミュニティがあるかもしれません。小中高と一緒だったけど、習い事のコミュニティがあるかもしれません。親戚のコミュニティだってあるでしょう。
親であるなら、あなたが生まれる前の人生があります。そのときに参加していたコミュニティがあるはずです。恋人も同様です。あなたを好きになる前に、あなた以外の人を好きになったり愛し合ったりしているはずです。
言い換えると、「いま一時的に」あなたと一緒にいる時間や濃度が高いということにすぎないというわけです。
ですので、親友であれ親であれ恋人であれ、あなたはその人のことを100%知っているとは断言できません。
もしも理解度が高いと思うのであれば、それは「こうであるはずだ」と勝手に類推したり、「自分がこうなのだからこう思うはずだ」など自分の願望とすり替えてしまっているかもしれません。
他者を自分の所有物のように考えている人には、このような類推やすり替えるという特徴があります。
みなさんには、少しだけ疑心暗鬼になってもらいました。けど、これすごく大切なことです。他者を100%理解しているなんてことはありえないからです。
関係性の可塑性
このように、人間関係は出会った時点ですべてがきまっているわけではない、ということです。
あなたが片思いした彼女がいたとして、今は魅力的ではないので振られたとしても、いつか魅力的になってもう一度告白したら、OKをもらえるかもしれません。
つまり、関係性には可塑性がつねにあるのです。あなたと他者をとりまく環境は、変幻自在であるのです。
したがって、あなたが他者を100%理解できないのと同様に、他者もあなたを100%理解することはできません。
「一般化された他者」
他者を理解するとき、あなたは「ふつう」という言葉をつかいます。
たとえば、あなたが他者を傷つけてしまったときに、他者の気持ちを慮る(おもんぱかる)ときに引用する根拠は、「ふつうは」という決めつけです。
他にも、「自分だったら」や「一般的には」という大きな主語を代入します。これを社会学用語で「一般的な他者」なんて言い方をします。この「一般化された他者」の引用合戦が、社会なのです。
「女なんだから」「男なら」「大学生は」「塾講師ってやつは」「日本人は」「中国人は」
私たちは、社会に属する以上、このようなでっかい主語の傘の下にいます。女性でありながら、日本人であると同時に、公認会計士であると同時に、太郎くんのママである。このように、同時に複数の傘の中にいるのです。
こうしたカテゴリーの下では、それにふさわしい振る舞いを私たちは要求されます。「それでも教師か」などのセリフが証拠です。これが苦痛だったり、楽しかったりするのですが、複数の仮面を付け替えて生きるのが人間社会ということです。
そして、カテゴリーの中に属している人は全部が全部その要求どおりの振る舞いをするわけではありません。
「大学生だったらこれくらいの漢字は知っていなければならない」わけではないし、「阪大生なら数学について絶対詳しい」わけでもないです。同時に、「女なら料理ができて当然」でも「男なら球技ができなきゃダサい」わけでもありません。
こうした決めつけはどんなに注意してもなくなることはありません。
なぜなら、これが人間関係だからです。つまり、私たちが生きる社会は、こうした偏見やカテゴライズといった「一般化された他者」を軸に、人間関係を構築しているのです。
つまり、あなたが理解していると思っているのは相手ではなく、そのカテゴリーに対してということになります。”〇〇高校”で”同級生”で”同じクラス”で”休みの日もよく遊ぶような”の”あなたといる時”の相手の言動という複数カテゴリーにおける部分的かつ一時的な理解にすぎないのです。
「私は誰か」の社会学の答え
私たちの人間関係は断片的な情報から、誤解や偏見に基づいてある種の全体性の構築によって成り立っていることを理解してもらいました。
こうした考え方を社会学用語で、『状況主義的役割人間観』といいます。
状況主義的役割人間観陥ってしまうと、<本当の私>や<本当の他者>なんか存在せず、状況によって仮面をつけかえるのが人間だ、という結論になってしまいます。でも、それって少し悲しくないですか?
親からもらった愛も、 『「愛する」という役割演技にしたがった結果だよ』「親友という役割演技をしているのだから、そのような振る舞いをしている」
そういう愛や友情みたいなものまで、役割に還元されてしまいます。
ジンメルはそれに対して、NOと答えています。なぜなら、そこには「人格」があるからです。あなたは、役割の仮面の束ですが、同時にあなたは<あなた>という人格を有しています。
その人格が、束を絡め取っているのです。そして、現代社会は人格を肯定しあうことで、その人に居場所が生まれます。他者による肯定が、社会的に存在する根拠になります。 つまり、「その人らしさ」って自分が「こうだ」と言い張るものではなく、誰かが認めなければ成り立たないのです。
まとめると、職業や性差などの仮面をはぐことはできません。ぼくは立命館大学に所属の元ニートの男性のヘテロです。状況に応じた振る舞いをしています。
しかし、それらを統合する<ぼく>という人格があります。そして、<ぼく>の人格にイエスを出してくれる人がいます。同時にぼくも彼らの人格にイエスを出します。
こうすることで、社会がつながります。
これが私とは誰かの答えになります。
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