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てこの原理のように小さなチカラを大きなチカラに変え、

『社会の常識、ここ変じゃない?』を変革する。

常識を変革するためには、小さなチカラを大きなちからに変換する必要です。

小さなチカラを大きなチカラに変換できない原因は、

社会で勝手に常識と決められた「しがらみ」です。

そのしがらみに「おかしくね?」とテコ入れするしていきます。

小さい力で、社会を変える大きな力を一緒に育てていくメディアです。

なぜ僕たちは「敬語を使いなさい」と言われ続けてきたのか。敬語をやめるべき理由を社会学的観点から語る。

「お前、先輩にタメ語使ってんじゃねぇぞ」

ーーーはい、すみません先輩

(おかしい。なにか間違っている、この社会は)

この奇妙なやりとりは、ぼくが中学生の頃の話です。

ふと立ち止まって考えてみると、どうして1、2個しか違わない人に「タメ語」ではなく、「敬語」を使わなければならないのでしょうか。

というか、そもそもなぜ歳上を敬わなければならないのでしょうか。

これに対し、社会学は答えを出しています。

社会学とは、生きていく中で触れる「なんとなく」や「あたりまえ」に対して、「なんでだろう」をぶつけてその原因を追求していく学問だからです。

今回は、社会の常識である「先輩に敬語を使わなければならない」に対して「なんでだろう」をぶつけ、その理由を社会学的に説明していきます。

【本記事で登場する社会学用語】

年功序列 :年齢や勤続年数に応じて、役職・賃金を上昇させる人事制度のこと。

日本型経営:戦後の高度経済成長を支えた「終身雇用」「年功序列」など日本独特の雇用システムのこと。

規律型訓練:人々を一定の基準に規格化するような訓練や教育を施し、その規律を各人が内面的に遵守すること。

目次

中学や高校の先輩に敬語を使う構造は年功序列制と似ている。

中学校に入学すると、小学校の時とは打って変わって先輩に敬語を使う義務が発生します。

その先輩たちはやがて卒業し、すると今度は私たちが「先輩」になり、「後輩」から敬語を使われるようになります。

体育会系色の濃い学校であれば、先輩という理由だけで命令する「しごき」や「体罰」、「パシリ」などの理不尽な文化も現代にはまだ残っているそうです。

あなたの学校はどうですか?(どうでしたか?)

さて、「学年が上がるにつれて地位が上がる」というこの構造は、何かに似ていませんか?察しが良い方はもうお気づきかもしれませんが、これは【年功序列制】に酷似しています。

年功序列制とは、年齢を重ねるごとに企業内でのポジションや地位が上がっていく仕組みのことです。

つまり、”偉くなるための条件は年上になることである”ということが構造上許されているんですね。

先ほども述べたように、これは中学校や高校でも同じですよね。1つや2つしか変わらない先輩に対し、あたかも偉い人と接するように関わらなければいけないからです。

ではなぜ、この2つは似ているのでしょうか?

実はこれ、必然的に似せているんですね。

学校は規律訓練の場である。

さて、なぜ学校と会社(日本型経営)は似ているのでしょうか。

結論から言うと、生産活動を効率化させるためです

生産活動とは、会社が利益を生む行為だと思ってください。

工場から商品を生み出し、それが売れることで経済が回ります。その結果、税金という形で政府はお金を徴収できます。

政府にとって上記のような生産活動を活性化させることは、安定的にお金を得ることと同等です。

そのため、政府の立場としては生産活動を効率化し、より安定的に税金という形で収入を得られるようにしたいわけです。

そこで、学校があります。

学校という場で、会社という環境に馴染める人を育てることができれば、企業にとっても政府にとっても良い結果をもたらします。

そのような規律を訓練する場として、学校は機能しています。規律訓練とは、ミッシェル・フーコーと哲学者(社会学者)が指摘した概念のことです。

気になる人は詳しく調べてみてください。

年功序列制社会では、「年上=偉い」を無思考に信じる人を学校で育てる。

では、年功序列制が用いられている社会では、どのような人材を育てればよいのでしょうか?

それは、年上の人に対して敬意を払えるような人材です。

なぜなら、年功序列制の下では、年上を敬うことのできる人である方が、人間関係がうまくいき、生産活動が効率的になるからです。

つまり、年上で能力の低い先輩が会社で威張っていても、学校で慣れさせておくことによって、「そういうものだ」と割り切ってガマンできるようしているのです。

これをすることにより、企業は安定的な労働力を確保でき、それにより政府が安定的に税金を徴収でき、そして、労働者も安定的にお金が得られるからです。

このように、3者がそれぞれ得する構造があったため、学校で先輩に敬語を使う必要があったんですね。

だから、多少の理不尽に対して、人々はガマンしていました。

だって、自分も年歳を重ねれば偉くなれるんですから。

ここで「ありました」「していました」と過去形が表現しました。この理由についてお話します。

しかし日本型経営は対応期限を迎え、年功序列制も機能しなくなる。

日本型経営システムは、すでに意味をなしておらず、対応期限を迎えています。

一部ではまだ残っているようですが、終身雇用はもはや機能していません。

それに応じて年功序列も機能していません。

つまり、一つの会社に就職したら定年退職までその会社に居続けることが難しい時代になりました。

言い換えると、転職があたりまえです。第二新卒という言葉が一般名詞として機能するくらいですからね。

このような時代において、若者は年上の人がウザかったらガマンする理由がありません。

これまでは、年上になればいずれは自分が偉くなれたので、ちょっとくらいの理不尽でもガマンできたわけです。

しかし、その受け皿が機能しなくなった現在、ガマンをするメリットはありません。

それが転職につながっています。

無思考に敬語をやめることが

つまり「1個上の先輩」に敬語を用い、敬う姿勢をみせる本質的な理由は、もはやありません。

それは、日本型経営の崩壊が暗示しています。

これまでだったら、じっとガマンしていれば「敬語」を使ってもらえるポジションに自動的になれたのです。

しかし、これからはそういうわけにはいきません。

実力に応じた給料が支払われます。そのような能力ベースでの評価軸はさらに社会に浸透していくことでしょう。

つまり、ガマンしててもじっとしてても「自分の番」は回ってきません。

そうした中で、「1個上の先輩」に敬語を使うことは、昔の価値観に囚われている証拠となります。

これからの時代に対応していくために、まず敬語をやめてみることから始まるのではないでしょうか。

また、学校教育においても”年上である”ことを理由にし、強制的に敬意を払わせるのをやめるべきです。

勘違いして欲しくないのは、人間的なリスペクトを捨てるわけではありません。

敬語さえ喋っていれば自動的に「リスペクトしていることになる」わけではないのと同じです。

そんな形だけの敬意ではなく、人間としての他者を思いやる気持ちは内側から湧き上がるものです。

「おい、(先輩の名前)!飯いこーぜ」

こんなことが言える社会になったらいいですね。

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